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テーマ:幕末、その他

むつ

2003/03/16(SUN)

 前日は大湊に宿泊しました。思っていたよりも便利な街で、地元ならではの夕食も取ることができました。恐山や仏が浦など下北半島観光の拠点となる街ですが、冬季は閉鎖されている道路が多いため、行ける場所が限られています。なので、今回は一般的な観光地は避け、幕末モード全開のプランを練りました。

 というのも、このむつ市はかつて斗南藩の領地でした。戊辰戦争に敗れた会津藩がお取りつぶしとなった後、再興を許されて「斗南藩」を名乗りました。「斗南」とは「北斗以南皆帝州」、すなわち北斗七星より南であれば、全て天皇の領地であるという言葉から取られたものといわれています。明治新政府からは猪苗代河畔とこのむつ市及び三沢周辺のどちらかを与えるとの提示があり、多くの藩士は旧領地に近い猪苗代を選択すべきという意見を持っていました。しかし、山川大蔵(浩)や広沢安任らが藩の再興のためにも広大な土地で開墾を進めるべしと強く推し進めたため、こちらに決まりました。戊辰戦争の混乱も収まった1870年3月、主に新潟経由で多くの藩士たちが移住してきました。彼らが上陸したのがこの大湊。大湊駅の裏手に斗南藩士上陸の地として石碑と木製の柱が建っています。駅からは少々遠回りになりますが、案内板がいくつかあるので見つけやすいです。石碑周辺には東屋も立てられていますが、残念ながらこの時期は雪に埋もれています。あまり訪れる人もいないようで、雪は踏み固められておらず、石碑のところまで行くのに一苦労でした(^^;石碑も柱も、会津の方を向いているそうです。

 大湊駅に戻り、そこからバスで田名部へ。田名部にはむつ市役所があり、中心地にあるむつバスターミナルからは本州最北端の大間や寒立馬で有名な尻屋崎へのバスが出ています。大湊駅からのバスは数年前まで走っていた電車の代替路線なので、旧田名部駅が終点になっています。駅舎やホームは当時のまま残っていて、ちょっとした観光スポットになっていました。ここからむつバスターミナルへは徒歩数分の距離です。

 バスターミナルを通り過ぎ、最初に向かったのは円通寺です。ここには斗南藩庁が置かれ、移住してきた斗南藩士たちの仮宿舎として使われていました。本堂は当時のまま残っているそうですが、法事のため内部見学はできませんでした。入口には真新しい説明板があり、境内には戊辰戦争での旧会津藩犠牲者のための慰霊碑が建てられています。隣接する徳玄寺も同様に仮宿舎として使われていましたが、こちらには文字の消えかかっている案内板があるのみでした。

 市街中心部に戻る途中、田名部神社にも立ち寄りました。江戸時代には下北の総鎮守として人々の信仰を集めたといいます。夏に行われる「田名部まつり」はこの神社の例大祭で、多くの人々でにぎわいますが、この季節は参拝に訪れる人の姿もまばらでした。

 次の目的地へはバス移動となるので、その待ち時間を利用してまさかりプラザに行きました。ここは下北半島の物産館で、併設のレストランでは下北半島の味を楽しむことができます。ここで青森限定キティや南部せんべいなどをGET。盛岡周辺では見かけたことのない「あめせんべい」を買ってみました。2枚の南部せんべいの間に麦芽飴をはさんだもので、なかなかおいしかったです。昼食はここのレストランで郷土料理「味噌貝焼き」を堪能。大きなホタテの殻にうに、イカ、貝柱などと味噌を乗せてあぶり、火が通ってきたらたまごをとじるという料理で、こちらも美味でした。

 バスターミナルで10分ほど待ち、尻屋崎方面行きのバスで向かったのは斗南岡。「斗南藩旧跡地」という大きな案内板があるこの場所は、斗南藩士開墾の地です。大湊から上陸した藩士たちはここに町を作り、開墾に従事していました。しかし、海に囲まれた下北半島の気候は非常に厳しく、強い風が常に吹き付けています。夏も短く、まして今まで農業に従事したことのない藩士たちにとってはこの地で作物を育てることなどほとんど不可能だったことでしょう。藩から支給されるわずかな米だけで身の回りのものを買い揃えねばならず、財政は常に困窮。会津から持参した着物などを売り、時には娘をも売らねばならない状況は悲惨そのものです。斗南藩士の苦労は柴五朗の著作「ある明治人の記録」に詳しいです。雪に埋もれていたので、この開墾の地が現在どのような状態なのかはわかりませんが、周囲に畑がほとんどないことから、現在もこの地での農耕は難しいのではないかと思いました。

 帰りのバスを待っている間、ふと一さんのことを考えました。もともと会津藩士ではないのに、新選組で会津の世話になったからと鶴ヶ城開城まで会津で戦い、その後は斗南まで移住して辛苦を味わい…その一方で、会津藩士の娘である妻・時尾さんとの出会いもあり、容保公から「藤田五郎」の名を与えられもしました。歴史に「if」はありませんが、一さんが歳さんと一緒に函館に行っていたら?もし斗南へは行かず、江戸へ戻っていたらその後の人生はどうなったのだろう?…おそらく、ここへ来たのが最良の選択だったのだと思います。元新選組、しかも副長助勤。ただでさえ長州や土佐の志士たちから恨みを買っているのに、油小路の変で薩摩まで敵に回してしまったような状況で、一人江戸で潜伏するのは非常に困難だったはずです。旧会津藩士として斗南にいる限りは、そういった追っ手から逃れることができます。江戸で潜伏していたものの見つかって斬首になった隊士たちに比べれば、数々の辛苦を経験しても無事に天寿をまっとうできた一さんの方がいい人生だったのではないかと思います。

 むつバスターミナルまで戻り、そこからはタクシーで下北駅に向かいました。東北新幹線の八戸延長で大湊線もダイヤ改正があり、今まで接続していた田名部発大湊駅行きのバスと大湊線が接続しなくなったためです。1000円ちょっとかかりましたが、2時間駅で待つよりはましです(笑)ところが、大湊方面の電車が遅れています。大湊線は単線なので、下北駅で待たず大湊駅まで行って、そこから折り返すことにしました。大湊駅に着くと、改札外は大変な混雑。しかもこれから乗る電車は1両編成。大湊駅まで戻ったのは正解でした。なんとか席を確保し、野辺地駅へと向かいました。遅れの原因は強風。徐行運転のため、野辺地到着は10分以上の遅れとなりました。私はそのまま終点の青森まで行くので特に問題ありませんでしたが、野辺地から八戸方面へ向かう人たちは乗り継ぎの特急電車が行ってしまった後。後続の青森〜八戸ノンストップの特急が臨時停車して事なきを得たようですが、大変な混雑になっていたので本来乗り継ぐはずの特急の指定券を持っていた人たちがかわいそうでした。

 青森では1時間ほどしか時間がなかったので、青森ベイブリッジアスパムだけ見てきました。アスパム前の広場は雪に埋もれていましたが、それに気付かず除雪されている所から入ってしまったので、出るのに一苦労でした(^^;

 青森から八戸へはきらきらみちのくというイベント列車に乗車。昨年、鶴岡から新潟まで行くのに乗った「きらきらうえつ」と似たような設備がありました。そこで一緒になったおばさんと、偶然八戸から乗る「はやて」の席が盛岡まで同じ列だったので、ずっと雑談をしながら帰りました。その人も「東日本パス」使用で、一人で青森まで行っていたそうです。自分の母親と同じくらいの年齢の人でしたが、そのくらいの年になっても一人でどこかへ行ける行動力をうらやましく思いました。

斗南藩士上陸の地城 円通寺本堂 円通寺招魂碑 徳玄寺 斗南が岡1 斗南が岡2
斗南藩士上陸の地円通寺本堂円通寺招魂碑徳玄寺斗南が岡



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