山崎
2003/12/31(WED)
山崎は大阪と京都の県境に位置し、その県境にそびえる天王山は戦国時代、豊臣秀吉と明智光秀による山崎の合戦の舞台です。しかし私はあまり戦国時代には興味がありません(^^;山崎は、禁門の変の際、長州軍が兵を置いた場所でもあるのです。禁門の変とは、1864年7月、前年の「8月18日の政変」によって京を追われた長州藩士らが中心となり、京都守護職の松平容保公を暗殺して孝明天皇を長州へ連れ出そうと兵を率いて御所までやってきたところを、会津藩兵らが御所の周りを固め、勃発した戦のことです。薩摩藩の加勢により劣勢となった長州軍は敗走しますが、新選組は彼らを追いつめます。久留米藩出身の真木和泉守を中心とした17名はこの地で自刃し、建物に火を放ちました。このような、悲劇の舞台でもある山崎には、一度行ってみたいと思っていました。しかし、「天王山」という名が表すように、禁門の変の史跡を見学するには登山をしなければなりません。夏や真冬は避けたいと思っていたので、今しかない!と思いこみ、スケジュールを組んでしまいました(笑)
京都駅からJR京都線で4駅目が「山崎」、この旅のスタート地点です。阪急の「大山崎」からも近いですが、今回は宿が京都駅近くだったのでJRを利用しました。まずは天王山登山口へ。かなり急な坂を10分ほど登っていくと、宝積寺につきます。通称「宝寺」。723年に建立された古刹です。真木和泉守ら17烈士の遺体は、当初この宝積寺の三重塔の傍らに埋葬されました。しかし、参拝する人が後を絶たなかったため、墓所を山奥に隠してしまったそうです。それが現在の十七烈士の墓です。
現在の墓所を参拝するため、いざ天王山へ…と登山口を探しましたが、本堂に向かって左手に進んでいってしまったため道がとぎれてしまいました。雨も降り出し、今回は登山は無理かな…とあきらめモードで来た道を戻ると、本堂に向かって右手に登山口を発見(^^;建物に隠れていて、わかりにくい場所にありました。はじめはコンクリートで舗装された道が続いていましたが、途中から山道に変わり、丸太と石の階段が延々と続いています。かなり険しい道でしたが、備中松山城や鞍馬〜貴船を歩けたのだから大丈夫、と自分を励ましました(笑)途中休憩を入れ、15分ほどで山崎合戦之地の石碑のところまでたどり着きました。正面には酒解神社の大きな鳥居がそびえ立っています。さらに登ったところに十七烈士の墓はありました。墓域の中心には「烈士墓表」と刻まれた石碑があり、ここに埋葬されている17人の名前と出身藩がが刻まれています。この石碑を取り囲むように十七の墓碑が並べられています。真木和泉守の墓碑は、石碑の真後ろにありました。用意してきた17本の線香に火を灯し、一人一人の墓碑にお参りをしてきました。禁門の変は長州藩が中心となったものですが、ここに眠る17人の中には長州藩士は一人もいません。彼らは何か熱いエネルギーを感じて京に集い、自らの信念を貫き通して散っていったのでしょう。年齢を見てみると、私と同い年くらいの人が多かったのが印象に残りました。
墓参後は、酒解神社の本殿へ。こちらも717年建立という古刹で、神輿庫は重文指定を受けています。初詣の準備が行われているようでしたが、どことなく寂しい感じでした。雨がやや強くなってきたので、ここで下山することに。再び来た道を戻り、途中の分岐点で山崎聖天方面へ向かうことにしました。登山中は特に気にならなかった石段が、下りは滑るので非常に怖いです。足下に気をつけながら、ゆっくりと下山しました。
山崎聖天は正式名称「観音寺」。899年建立という古刹です。宝積寺も酒解神社もそうですが、天王山一帯は禁門の変の際、戦火に包まれてほとんどの建物を焼失してしまいました。しかし、聖徳太子作と言われる本尊、十一面千手観音菩薩像は池に沈められ、無事だったそうです。寺でありながら、天皇の命で鳥居が作られたというおもしろいエピソードも残っています。ここの石段もかなり急で、下山して疲れている足にはつらいものでした(^^;しかし、なんとか無事に下山。山崎駅に戻りました。まだ時間があるので、その後は京都に戻って観光を続けました。
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