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テーマ:幕末、その他

今市

2004/08/29(SUN)

 東武鉄道の株主優待券が安く手に入ったので、日光に行くことにしました。その前に、「下野の戊辰戦争」という本で調べていた今市付近の戦跡を歩くプランを組み、北千住から快速電車に乗りました。快速と言っても停車駅は特急とほとんど変わらず、その差は10分程度です。車両も折り畳み式のテーブルつきで、ちょっとお得な感じでした。

 北千住から2時間弱で下今市駅に到着。まずは日光街道と例弊使街道が交わる追分へ。ここには追分地蔵が安置され、街道を行き交う旅人たちを昔から守っています。

 今市は会津街道も交わる交通の要衝で、領内への新政府軍の進軍を防ぐために会津藩が何が何でも守らなければと考えた土地でした。江戸脱走組の旧幕臣大鳥圭介を隊長に、若き会津藩家老・山川大蔵を副隊長に組織された旧幕府軍の数はおよそ1300名。そのうち、今市での戦闘を行ったのは350名ほどの第二隊です。これに対し、新政府軍は800名。人数でも武器でも劣る旧幕府軍は慶応年閏4月、大谷川を渡り、挟み撃ちにする奇襲作戦を試みましたが、一方の部隊の川越えが遅れたため失敗。新政府軍の会津街道への進軍を許してしまいます。大鳥はこの敗走は自らの作戦ミスであったことを認めています。戦闘は日光にまで及ぶところでしたが、僧侶の説得によって大鳥はこの地を立ち去ったといいます。日光には説得に当たったとされている板垣退助の銅像がありますが、実際に説得をしたのは今市の僧侶だったとか。しかし、板垣率いる新政府軍がこの今市で敗北していたら、日光方面まで戦渦が及んでいた可能性もあります。会津にとっては今市攻防戦の敗北は後の鶴ヶ城落城・会津藩降伏につながる分の悪いものでしたが、世界文化遺産となる日光を守れたことはよかったのかもしれません。

 今市の戊辰戦争関連史跡は、街道の杉並木に残る銃痕土塁がありますが、歩いて探しに行くには少々遠かったので、追分から歩いて10分ほどのところにある如来寺にある戊辰役戦死者供養塔を見に行きました。門のすぐ近くにあるとのことでしたが、門前には2つの墓域しかなく、墓域の中にもそれらしき石碑は見つかりません。境内も歩いてみましたが、発見できず。移動してしまったのかな…とあきらめかけていた時、門のすぐ横の植え込みの中に、石碑を発見しました。木々に埋もれ、全く目立たなくなっていましたが確かに「戊辰役戦死者供養塔」と刻まれています。この石碑は東軍・西軍関係なく、今市での戦闘で戦死した人々を供養するために大正6年に建てられたものだそうです。もう少し手入れが行き届いてれば…と残念に思いました。

 下今市駅に向かう途中に、報徳二宮神社があります。こちらは二宮尊徳を祀った神社で、墓所と遺品などを集めた資料館もあります。小田原生まれの二宮尊徳(金次郎)は晩年今市に移住し、この神社のある場所で亡くなりました。境内には有名な薪を背負った像はもちろん、晩年の姿の像もありました。

 下今市駅に戻り、東武日光行きの電車に乗車。浅草から鬼怒川までの特急に乗ってくると、ここで普通電車に乗り換えなければならないので、特急到着後は通勤電車並みの混雑になっていました(^^;

追分 戊辰役戦死者供養塔 報徳二宮神社 二宮尊徳像
追分戊辰役戦死者供養塔報徳二宮神社二宮尊徳像



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